【新党結成】党名の案『立憲民主党』は どうして?










民主党代表・岡田克也氏は当初、時期に関して「参院選後の合流」に舵を切ったとみられており、『民維新党』は9月が有力だったが、流れを変えた男が同党政調会長細野豪志氏である。

はじめは「参院選後の合流」に煮詰まった維新の党。衆議院における民主党との共同会派を解消することは たやすい。そこで、野党たる 改革結集の会、生活の党と 滑り込みの「非 民主党勢力」保守新党を、民主党執行部につきつけるプランが加速したのであった。 そして、この「新党」に、前出の細野豪志氏が党内グループを率い合流を表明、さらに民主党元代表・前原誠司氏、予算委員会所属の同党・玉木雄一郎氏らが離党・参画し、衆院50人規模の「新党」が結成するとの観測気球が 永田町にあがったという。
つまり、岡田氏は 「党」の組織ガードが命題だったわけだ。追い込まれ新党と呼ぼう。岡田氏が代表選の功労者・蓮舫長妻昭赤松広隆阿部知子各氏らを立てていれば 政局だった。「看板を変えればいいのか」という旧来の発言が逆に その心境を示している。




新党名については産経新聞日刊ゲンダイが伝えた。どうも『立憲民主党』らしい。
『立憲』は慶應義塾大学名誉教授・小林節 氏の推しでもあると思われるが、参院選 熊本選挙区における野党系候補(無所属)は おそらくは『立憲』の公認になるとみられ、名称がバッティングする。複雑だが、ひとしきり説明したい。
無所属候補が選挙戦を戦うには公職選挙法の制約がある。ポスターやチラシの規定枚数が与党公認候補に劣ってしまい、連合の動員も かけられない。そこで、選挙活動の制約を取っ払う確認団体としての『立憲』(仮称)を総務省に届ける、というのだ。
モデルケースは1989年参院選における『連合の会』とされている。そもそも労組票しか集まらないので選挙区での落選は間逃れず、他の野党が 軒なみ推薦することで無党派の体をとった。野党系候補のさきがけ である。
今回の参院選に重ねると、いってみればペーパの『立憲』の個人集票力を、比例代表の『民維新党』へ利用したいのが民主党だ。『連合の会』は11名の当選者を生んでいる。
各地の『立憲』野党系候補者Aが「『戦争法』に反対する私を、みなさまの清き一票で 国会に送ってください!」と 叫ぶ。両手を上げる有権者が書くのは「A」である。ただし、参院選は選挙区と非拘束名簿式比例代表の併立制であるから、後者での投票行動は 文字どおりのバラバラと化すだろう。『民維新党』の党名が『立憲民主党』と なれば、の話だが、それが こうなる。略称が 労組系の願う『民主』だろうと関係ない。つまり、野党系候補の『立憲』と新党の『立憲』がシンパシーを どことなく感じさせ、比例代表において 幾分か優位になるわけだ。